現実をありのままに受け入れる


受容ってなんだろう?


私はこの考えと苦戦しました。(今もしています。)DBTは受容を促し、私はDBTセラピストであるにもかかわらず、受容が分からない。今回は今の私が「ここまでは言える」と思っている受容のコンセプトを書きたいと思います。


受容とは現実をありのままに受け入れること。シンプルに聞こえますが、考えれば考えるほど分からなくなります。「すべてはそのままで完璧である」とマニュアルは解きます。目の前に苦しんでいる人がいるときに、その方の人生はそのままで完璧だと言えるでしょうか。私には言えませんでした。まったく不適切極まりなく、冷たくて残酷だと。「現実を受け入れよう」という声掛けは苦しんでいる人には「みじめでも仕方ない」と聞こえるのではないかとも思いました。だから屈しよう、諦めよう…と。


根本的な考えが分からないのには、私の認識になにか誤解があるのはないかと考えました。以下がここまでの気づきです。


あ)「完璧」という言葉を現代の私たちは優位なものと理解している。より美しく、より楽しく、より豊かに、より賢く、より速く…。この意味での完璧は比較の中でのみ生まれる。目の前にのとそれより良いもの。そうしたときの完璧は、今はないけれど、あるかもしれないものという意味になりがち。


い)「完璧」はまた、欠陥がなく皆が欲するものという意味で使われることが多い。完璧な成績、完璧な転機、完璧な容姿…。ということは、自分が欲しくないものは完璧であるはずがない。


う) 同時に、人生が苦しいとき、人は現実を永遠のものと錯覚する。「現実を受け入れよう」とそのタイミングで言うと、これからずっと人生はこうであると受け入れなければいけないのだと感じる。すると、とてつもなく理不尽に感じる。


マインドフルネスの基となる禅の教えの中での「完璧」は今日の使い方とはまったく違うようです。完璧とはそれ以上もそれ以下もない状態。つまり別のものにはなりえない状態。欲するか欲しないか、よりよいかどうか、苦しいか苦しくないかは判断基準ではないのです。今そこにあるものはそれ以外のものでありえない。それだけ。


心理的な苦悩は、「今あるもの」と「そうあるべきもの」のギャップにあるのではないかと思います。今あるものを否定し続けても、そうあるべきものにこだわり続けてもギャップは大きくなり続けます。言い換えれば、今あるものが違ったらよかったのにという欲望が苦しみを増すのです。苦しめば苦しむほど、現実から目を背け、関わりません。現実に積極的に関わらないのは、次の瞬間の現実、遠い未来を形作っていくことを放棄するようなもの。自分が生きていく未来を作り上げるにはどんなに受け入れがたいことでも今この瞬間の現実を受け入れる必要があるのだと「受容」は言っているのではないかと思います。


ということは、「あるがままの現実を受け入れる」は屈することでも諦めることでもありません。例えるなら、スタート地点がよいか悪いかで抵抗するのをやめましょうということでしょうか。スタート地点を受け入れない限りスタートできないのですから。好きでも嫌いでも走りだせば、あとは自由に走れるのだと信じてみること、それを受容の概念は説いているのかもしれません。 回復、癒やし、人生。どんなマラソンも走りださないことには始まりません。「ありのままの現実を受け入れる」は、スタート地点を受け入れる、そうしなければずっとそのスタート地点に立ち続けるのだから。走りださないことこそが「諦める」こと、「ずっと苦しみ続ける」ことではないかと今の私は思っています。



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