マインドフルネスを怪しいと思っているあなたに試してほしい3つの前提

私たちは毎日毎日めまぐるしい情報過多の生活の中で数えられないくらいの判断をしています。「宿題しようかな、SNS見ようかな」などという小さいものから、世間で騒がれていることに自分は賛成か反対か、あるいは仕事を続けるか辞めるかなど大きなものまで。沢山選ばなくてはいけないことがありすぎて、いちいちちゃんと考えていられない、と思ったことはありませんか? 時には反射的、衝動的に何かを決めてしまい、後から「なんでこんなことしたんだっけ?」と思ったりしているのではないでしょうか。意地をはってしまって真意とは反対のことをしてしまったこともあるかもしません。


DBTでは、瞬間的な満足感ではなく、長期的な人生のゴールを視野にいれて、それぞれの状況の中で意味のある選択をする練習をします。それを促すマインドの状態を「賢明なマインド」と呼ぶのですが、そのマインドに至る道しるべがマインドフルネスです。


賢明なマインドは、性善説に基づいています。人間は生まれると同時に社会や宇宙の一員になり、運命を共にします。共存するために、人間は自分にも周りにも善を尽くす才能を持って生まれ、それがデフォルトー何もしなければもともとそこにある姿―だという考え方です。


日常生活を賢明なマインドで過ごすと、例えば、「あ、これはあとで後悔するな」という気づきが今より上手にできるようになり、判断するまでに一拍置いて再考できるようになります。また、相手を傷つけると最終的には自分に返ってくるということも気づけるようになります。一番見たくない自分が前面に出て誰かと衝突している時でも、思いやりや優しい心を思い出させてくれます。また衝突や競争で問題が解決しないとき、衝突自体に固執することをやめさせてくれます。究極的には受け入れがたい現実も「これが現実」と思えるところまで導いてくれます。


ちょっと宗教とか哲学のにおいがしてきましたか?胡散臭いでしょうか。私も20代、30代はそう思っていたと思います。


若いときは、「落ち着く」イコール「つまらない」、「優しさや思いやり」はひ弱に聞こえ、賢明なマインドは、エネルギーや興奮とは相容れないと感じるかもしれません。


感情の浮き沈みが激しく、なにもうまくいかないように感じるときは、賢明のマインドなどと言われると、バカにされたような、不可能を押し付けられているような感じになるのではないでしょうか。「そんな風に思えるんだったらそもそもこんなことになってない」「簡単に言ってくれるね」、そんな感じでしょうか。


人生がうまくいっている時は、賢明なマインドは皮肉、あるいは現実離れした平和主義に聞こえるのも分かります。競争も勝利もない世の中なんて資本主義ではありえないし、野心や向上心を持つこと、便利性を求めることこそ人間の本来の姿と感じるでしょうから、無視、無視、と内なる声が聞こえます。


私も懐疑心いっぱいでマインドフルネスを始めました。私が懐疑心を持ちながら、重い腰を上げ、探す作業を続けるために考えた前提が3つあります。前提とは、そうですね、証明はできないけれど、多分こうと見通しをつけてそれを信じること。それをご紹介します。


3つの前提


第一の前提「きっと私にも善はある」

性善説です。総論としては納得いっても、自分も多分よい人だと自分に言い聞かせるのは別の次元の問題です。最初はなかなかできませんでした。私にも自慢できない過去の行いはありますし、日々、自分の行動にがっかりすることももちろんです。それでも、「どうせないからやらない」と言わず、とにかくやってみるために、私は一旦このあまりよくない自己イメージを横に置くことにしました。「私もきっとよい人」はしっくりこなかったのですが、「きっと私にも善はある」で落ち着きました。これが出発点となりました。


第二の前提「賢明なマインド探しは宝探しのようなもの」

見つけたいし、見つける努力をする。見つかったらものすごくラッキー。でも、見つからなくても、何か別の楽しいことか新しい発見はあるだろうと思うことにしたのです。道に迷ったときに思いがけず素敵な場所を見つけてしまうような感覚。そっちを期待すれば見つからなくてもあまりがっかりしないかなと思いました。


第三の前提「矛盾が見えるのは賢明なマインドがあるから」

矛盾や相容れない反対要素に直面するたびに、賢明なマインドなんてやっぱり無理と感じがちだったのですが、発想を転換することにしました。「賢明なマインドがあるから、矛盾に気づく」のかもしれない。賢明なマインドがなければ多分矛盾にも何にも気づかず、逆にもっと楽にいろんな判断ができるのかもしれません。もやもやするのは、まだ見えない賢明なマインドが何かを教えてくれようとしているんだと思うことにしたのです。


この3つの前提のもとに私は毎日ちょっとずつマインドフルになる時間を作っています。(マインドフルネスの方法論はまた別の機会にします。) やればやるほど難しいと感じます。何にも変わらないなぁと思うこともしばしばです。多分それは、私の中にあるはずの善は、半世紀の人生の中でいろいろなものに包まれてしまったから。ああしたい、こうしたいという欲求、一番になりたい野心、もっともっとという気持ち、努力はすべてに勝るという信念、賢明なマインドを探しだして見えてきたのは、外殻でした。長い間これらを指標としていろいろ行動し、ある程度うまくいってきたので、核はあまり重要でなかったのですね。ただ、核には善があるはず、賢明なマインドはあるはず…と思うことで、なにか見失っているものがないか考えることが増えました。


もう一つ気づいた大切なことは、私の自分のイメージは何かをしている姿しかないということです。何もしていない私は私ではないし、「なにもしない」なんてもったいなくてありえない…という思考がくっきりはっきり見えました。最初はマインドフルになる5分を作り出すのに苦労した感じです。意図して5分間ただ座ったり、選択として「なにもしない」を練習したおかげで、「何もしない」との関係が変わってきました。何もしてないとき、何もしてないと焦らなくなった感じです。


ここから派生して自分の選択が両極化しそうなことに他の場面でも気づくようになったと思います。「感情と理性」「思考と行動」「愛と無関心」「戦うか逃げるか」「お金か価値観か」「仕事か家族か」「自由と責任」など。まだまだたくさんあります。こういった白黒のどちらかを選ぶやりかたでは、結果いつも「あれでよかったのかな?」と切り捨てたはずの選択肢に舞い戻り、すっきりしないのだと思います。


不思議なことに、賢明なマインドを探しにでて、まだ見つけていないにも関わらず、そこにあると想像するだけでずいぶん物の考え方が変わったような気がします。自分の善の可能性を否定していた時よりは自分に優しくなったと思います。また、がむしゃらさが少し落ち着き、「まぁいいか」と思える、力の抜けた感じも分かるようになりました。


DBTが賢明なマインドを見つけるためのマインドフルネスをセラピーの核と呼ぶ理由が何年もかけて体感できるようになってきました。あなたもあなたの賢明なマインドを見つける旅に出ませんか? 。懐疑心をもったままでもよいから。賢明なマインドそのものでなくても、なにか気づきがあると思います。

閲覧数:69回0件のコメント

最新記事

すべて表示

このスタジオを立ち上げて1年弱。時々クライアント様たちから、いったいDBTってなんなのか、直感的な感想を頂きます。その中からいくつかをご紹介いたします。 「息継ぎの方法を思い出した」 (心の痛みに耐える方法) クライシスのさなかというのはどうにもならない渦巻に飲み込まれたような感覚。息継ぎをしようとして水を飲んでしまう。頑張れば頑張るほど飲み込まれていく恐怖。こうすればいいと普通なら分かっているこ

受容ってなんだろう? 私はこの考えと苦戦しました。(今もしています。)DBTは受容を促し、私はDBTセラピストであるにもかかわらず、受容が分からない。今回は今の私が「ここまでは言える」と思っている受容のコンセプトを書きたいと思います。 受容とは現実をありのままに受け入れること。シンプルに聞こえますが、考えれば考えるほど分からなくなります。「すべてはそのままで完璧である」とマニュアルは解きます。目の

弁証法的機能不全とパーソナリティ DBTを求める人の多くは混乱した自己イメージを抱いています。周りの人にとっては、自己表現がぶれ、考えやムード、願いや行動(パーソナリティと呼ばれるもの)に一貫性がないと映ります。心理の世界では一般に自己イメージやパーソナリティは、自分を人と分けるもの、時間や環境が変わってもある程度安定しているものと位置付けますが、弁証法的世界観はこれとは少し違った考え方をします。